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楫取寿子(かとりひさこ)って誰だよ、って、2015年大河『花燃ゆ』で優香が演じていた松陰の妹です。
あ、ドラマの内容は思い出さなくていいです。・・・うっ!眩暈が・・・・・・
さておき、『婦人の鏡』という古い書籍に寿子の遺言状が載っているのですが(国会図書館デジコレのサイトで閲覧可)、旧字体・変体仮名のコンボで非常に読みにくい!!
・・・という事で、読みやすく現代表記にする作業を去年やったんですが、発表する機会がなかったため、
せっかくなので1月30日は寿子の命日という事で、ちょっと気になった部分をいくつか紹介したいと思います。
始めに紹介しておくと、寿子は天保10(1839)年生まれ。高杉晋作と同い年ですね。
吉田松陰の2番目の妹で、15才の時、10才年上の小田村伊之助(楫取素彦)に嫁ぎます。
明治14(1881)年1月30日に病死。享年43才。
この遺言状は息子2人の嫁に宛てて書かれたものです。
長男・小田村希家(ひさいえ)の嫁、多賀(たか)。
次男・楫取道明の嫁、美寿(みす)。
ではさっそく、気になる文をいくつかピックアップしてみましょう!
文章は宮本が現代表記に直したものです。便宜上、漢字は読みを優先して変更してあります。(「良人(おっと)→夫」など)
我が真宗の法義は、かたじけなくも全国無二の教法にして、我らごとき愚昧の者にも聞き開きやすき他力本願に候えば(後略)
寿子は浄土真宗の熱心な信徒だったため、遺言状も真宗についてかなりウェイトが置かれています。
第一文がこれです。以降もマニアックな真宗話がバンバン出てきます。嫁2人も信徒だったかは不明・・・
ちなみに「他力本願」って「阿弥陀如来の本願」って意味らしいぜ!
殊に女は装いを以って礼儀とするものなれば、(中略)
朝ごとに夫の起き出でたまわぬ前に着物を着替え、身じまい潔くして夫の目覚めを待つべし。
夫、他に出でたもう時は、留守の間は夫に代わり何くれとなく気を配り、不都合無きよう働くべし。
なんという、逆・関白宣言・・・!
素彦が群馬県令時代、留守の時は寿子が代わって部下に指示を出していたらしいので(大河ドラマ館展示より)、寿子の献身さは実際の行動にも良く表れていますね。
かかる尊き御教えの我が皇国にありながら、それをば余所事に捨て置きて、何の不足ありてか、この頃世間の噂には、異国のあやしき教えなどになびく人もままあるよし。
これは畢竟(ひっきょう)、隣の味噌は酸い甘しという諺の如く、我が内にある米の飯(まま)を食べずして、隣の家の味なき物を賞翫するに同じければ、愚かなる女の我らが目にさえ、いと恥ずかしき心映えかなと浅ましさ限りなく思われ候。
(おそらく)キリスト教ディスりまくり!群馬は新島襄の影響でキリスト教徒も多かったみたいですけどね。
あー、寿子と新島八重の対面が見たい・・・。女傑同士だけど、対照的な部分もあって面白そう。
もはやこの節は呼吸の息もせわしければ、とても来春まで永らえんことは心許なく存じ候えば、
父上の御恩、万分一も報い申さず先立ち候は勿体なきことと、ただそれのみ朝夕心苦しく候ことゆえ、
このうえはいよいよ両人とも仲良く睦まじく申し合わされ、父上に孝行頼み入り申し候。
寿子は自分がもう永くない事を悟っているようですが、この文がいつ書かれたのか不明。
「父上」は嫁たちの義父で寿子の夫の素彦の事と思われます。
素彦も幕末に藩内で入牢させられる際、寿子との別れに詠んだ漢詩の中で
「糟糠より未だ阿卿の徳に報いざるに」と詠んでいて、上の「父上の御恩、万分一も報い申さず先立ち候は勿体なきこと」と同じ内容なのが、2人がお互いを思いやる様子を良く伝えています。
なお、お美寿どのは、久坂家の母上に別して孝道専一のことに存じ申し候。
例の大河の主人公といえば、寿子の妹の文(美和子)でしたが、遺言状の最後のこの一文が文についてのものと思われます。
次男の道明(久米次郎)は久坂玄瑞・文夫妻の養子になりますが、久坂の死後、実子の秀次郎が出現し久坂家を継ぎます。
道明は楫取家に戻りましたが、文は未だ久坂家のままです。
そんな感じで、簡単ですが楫取寿子の遺言状を紹介してみましたが、いかがだったでしょうか。
全文が気になる方は、「婦人の鏡」で検索検索ぅ!
素彦・寿子夫妻は本当にイイ逸話が多いから、誰かドラマ化してくれないかなぁ・・・
という事を前も書いた気がする・・・
あ、ドラマの内容は思い出さなくていいです。・・・うっ!眩暈が・・・・・・
さておき、『婦人の鏡』という古い書籍に寿子の遺言状が載っているのですが(国会図書館デジコレのサイトで閲覧可)、旧字体・変体仮名のコンボで非常に読みにくい!!
・・・という事で、読みやすく現代表記にする作業を去年やったんですが、発表する機会がなかったため、
せっかくなので1月30日は寿子の命日という事で、ちょっと気になった部分をいくつか紹介したいと思います。
始めに紹介しておくと、寿子は天保10(1839)年生まれ。高杉晋作と同い年ですね。
吉田松陰の2番目の妹で、15才の時、10才年上の小田村伊之助(楫取素彦)に嫁ぎます。
明治14(1881)年1月30日に病死。享年43才。
この遺言状は息子2人の嫁に宛てて書かれたものです。
長男・小田村希家(ひさいえ)の嫁、多賀(たか)。
次男・楫取道明の嫁、美寿(みす)。
ではさっそく、気になる文をいくつかピックアップしてみましょう!
文章は宮本が現代表記に直したものです。便宜上、漢字は読みを優先して変更してあります。(「良人(おっと)→夫」など)
我が真宗の法義は、かたじけなくも全国無二の教法にして、我らごとき愚昧の者にも聞き開きやすき他力本願に候えば(後略)
寿子は浄土真宗の熱心な信徒だったため、遺言状も真宗についてかなりウェイトが置かれています。
第一文がこれです。以降もマニアックな真宗話がバンバン出てきます。嫁2人も信徒だったかは不明・・・
ちなみに「他力本願」って「阿弥陀如来の本願」って意味らしいぜ!
殊に女は装いを以って礼儀とするものなれば、(中略)
朝ごとに夫の起き出でたまわぬ前に着物を着替え、身じまい潔くして夫の目覚めを待つべし。
夫、他に出でたもう時は、留守の間は夫に代わり何くれとなく気を配り、不都合無きよう働くべし。
なんという、逆・関白宣言・・・!
素彦が群馬県令時代、留守の時は寿子が代わって部下に指示を出していたらしいので(大河ドラマ館展示より)、寿子の献身さは実際の行動にも良く表れていますね。
かかる尊き御教えの我が皇国にありながら、それをば余所事に捨て置きて、何の不足ありてか、この頃世間の噂には、異国のあやしき教えなどになびく人もままあるよし。
これは畢竟(ひっきょう)、隣の味噌は酸い甘しという諺の如く、我が内にある米の飯(まま)を食べずして、隣の家の味なき物を賞翫するに同じければ、愚かなる女の我らが目にさえ、いと恥ずかしき心映えかなと浅ましさ限りなく思われ候。
(おそらく)キリスト教ディスりまくり!群馬は新島襄の影響でキリスト教徒も多かったみたいですけどね。
あー、寿子と新島八重の対面が見たい・・・。女傑同士だけど、対照的な部分もあって面白そう。
もはやこの節は呼吸の息もせわしければ、とても来春まで永らえんことは心許なく存じ候えば、
父上の御恩、万分一も報い申さず先立ち候は勿体なきことと、ただそれのみ朝夕心苦しく候ことゆえ、
このうえはいよいよ両人とも仲良く睦まじく申し合わされ、父上に孝行頼み入り申し候。
寿子は自分がもう永くない事を悟っているようですが、この文がいつ書かれたのか不明。
「父上」は嫁たちの義父で寿子の夫の素彦の事と思われます。
素彦も幕末に藩内で入牢させられる際、寿子との別れに詠んだ漢詩の中で
「糟糠より未だ阿卿の徳に報いざるに」と詠んでいて、上の「父上の御恩、万分一も報い申さず先立ち候は勿体なきこと」と同じ内容なのが、2人がお互いを思いやる様子を良く伝えています。
なお、お美寿どのは、久坂家の母上に別して孝道専一のことに存じ申し候。
例の大河の主人公といえば、寿子の妹の文(美和子)でしたが、遺言状の最後のこの一文が文についてのものと思われます。
次男の道明(久米次郎)は久坂玄瑞・文夫妻の養子になりますが、久坂の死後、実子の秀次郎が出現し久坂家を継ぎます。
道明は楫取家に戻りましたが、文は未だ久坂家のままです。
そんな感じで、簡単ですが楫取寿子の遺言状を紹介してみましたが、いかがだったでしょうか。
全文が気になる方は、「婦人の鏡」で検索検索ぅ!
素彦・寿子夫妻は本当にイイ逸話が多いから、誰かドラマ化してくれないかなぁ・・・
という事を前も書いた気がする・・・
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