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■副題:「運命の糸つなげて」
■年代:1876年12月~1877年冬  美和=35歳 楫取=49歳 寿=39歳



今回も「紀行」だけ見れば十分ですね。はぁ、本編はストレス溜まってしょうがない。


何やらまた色々史実がいじくられているので、今回は「本来ならこういう話が見られたんじゃないか」的
妄想あらすじを書いてみましょう。




明治10年2月に始まった西南戦争は、遠く離れた群馬も無関係ではいられなかった。
2月末には大久保利通の代理の前島密から、巡査500人を至急募集するよう通達が出た。
楫取もそれを受けて県内に通達を出した。

「目下の事変に際し、住民の保護の任に選ばれる男子の面目は申すまでもなく、国民の義務を尽くすのはこの時である。筋肉強壮にして、事に堪ゆべき者は奮発して応募するように」

こうして集まった約500名の応募者は、楫取や大書記官の訓辞を受け、東京へ向かった。6月には新たに巡査100人が募集された。
しかし、その全てが生きて再び上州の土を踏めた訳ではなかった・・・・・・


そんな時勢の2月、楫取は道明(久米次郎)と共に、ある本を出版した。
『江月斎遺集』 ――「江月斎」は道明の亡き父・久坂玄瑞の号である。その遺文を集めたものだった。
題字は三条実美、序文は木戸孝允が筆を執った。
久坂の死から13年・・・彼が今のこの世を見たらどう思うであろうか・・・・・・
萩にいた美和は、送られてきた本を読みながら亡夫に想いを馳せるのだった。


この年、前橋にある家族が引っ越してきた。
父親は千葉県と群馬県から官職の誘いを受けていたが、息子達のため、教育の評判の良い群馬県にやって来たのだ。
さっそく、10歳の長男とその弟が厩橋学校(後の桃井小学校)に編入した。
その長男の名は鈴木貫太郎・・・後の第42代内閣総理大臣である。


春が来ても、西南戦争はまだ続いていた。
激戦だった田原坂の戦いも政府軍の勝利に終わり、流れは良くなっているように見えた。

5月21日には「第十五国立銀行」が開業。長州藩最後の藩主・毛利元徳が頭取を務めた。
木戸が時勢に胸を痛めながらこの世を去ったのは、そのわずか5日後の事だった・・・・・・


寿の病状も悪化していた。
もはや自分で歩く事もできず、入浴その他に介護を必要とした。
楫取はそんな寿にできうる限りの治療を受けさせた。
横浜から良質な薬を取り寄せた。
毎日医者が往診しエレキ治療をした。
外国人医師にも診せた。
結局、東京の道明の元で療養させる事になった。
6月末頃には寿の世話をしていた使用人の女性が結婚し退職する事になっていたので、美和に上京してくれるよう再三頼んだ。
6月末、美和は2度目の上京を果たしたのだった。


・・・てな感じ。ぜんぜんちがうじゃないかーーーっ!!
あ、にわか知識の妄想なので鵜呑みにしないでねw事実の羅列ばかりでヤマなしオチなしだしねw

劇中はまだ春が来てないようなので、元徳の頭取就任と寿の東京転居が前倒しされてますね。
鈴木貫太郎が何月に越して来たのか分からん・・・
美和に『江月斎遺集』が送られたかどうかは史料なしの創作っす。

『江月斎遺集』は、奥付によると
明治9年11月22日版権免許
明治10年2月25日出版
出版者は山口県士族・久坂道明、住所は上野国群馬郡渋川駅。

6月に寿が東京に移った頃は、道明は既に東京にいたっぽいですが、いつ引っ越したんだろう?
それにしても、史実の楫取は大枚をはたいて寿の治療に尽くしているのに、ドラマでの寿はとりあえず寝かされてる感がありますね。
もういっそ南方仁先生呼んだ方が早いよ・・・。その間、楫取が行方不明になるかもしれないけど・・・(えっ)

つーか、寿の功績が全然描かれないまま東京に行っちゃったんですけどー!?
ふざけんなー!ただの病人扱いかよ!!
あーはいはい、美和さん寿から楫取の事を託されて良かったですねー。これで堂々と女房ヅラできますねー。(棒読み)
・・・という感想しか出てこないんだよなこのドラマは・・・・・・
そういえば、病人の見舞いに「焼きまんじゅう」ってどうなのよ!?食べにくいだろ!?なんだそのご当地グルメぶっ込み展開は!


さて気を取り直して、上の妄想あらすじで触れなかった、「留魂録」について。
これ、野村靖の回顧録だと「明治9年某月」となってますが、楫取の日記だと「明治7年5月27日」の記述なんですよね。
日記の方が信憑性が高そうな気がしますが、はてさて。
その野村の記述だと、沼崎は松陰から「これを長州人に渡してくれ、長州人はみんな私を知っているから誰でもいい」と言われたそうなので、
ドラマでやってたような村塾生という確認は必要ないはず。
野村が自分は松陰の弟子だと告げると、沼崎は驚喜して松陰の獄での様子を話したという。
ちなみにもう1冊が久坂と一緒に燃えたのは創作ですよ。実際は行方不明です。


今回のイライラポイント(毎回書くのか?これ)は、学問をゴリ推ししてくる美和さんですね。
なんかドラマでは、群馬は教育後進県で楫取と美和だけ教育に熱心みたいな描かれ方ですが、群馬を愚弄するのもいい加減にして欲しい。

上の方で鈴木貫太郎の件にちょっと触れましたが、群馬は楫取県令以前から教育に力を入れていました。
明治5年の学制発布以降、厩橋学校、水沼学校、原街学校などが開校。
しかし、あまり就学率が上らなかったため、楫取は就学・不学率の統計を調べたり、試験を行って成績優秀者を表彰するなどして、学業を奨励しました。
明治8年から就学率はぐんぐん伸び、明治9年には全国38.3%に対し群馬50.0%、明治10年には全国39.9%に対し群馬57.5%となっています。
ドラマでは学校作んなきゃ作んなきゃ言ってましたが、明治10年の時点で小学校が547校あります。
楫取はその後も、様々な学校に赴いて式典で祝辞を述べたり、扁額を揮毫したりしています。

史実通りにやればいいのに、どうしてどーでもいー茶番、もとい冒涜を見せられなければいけないのか・・・
つーか、妻に文字を教えても旦那の博打癖が治るとは限らないだろ!
そういえば、せいさんは「美和さん」呼びをするために、今まで「お手伝いさん」呼びだったのか・・・なんだそれ。
その美和さんは、またもや中身のない美辞麗句で人を説き伏せてますよ。スーパーネゴシエーターですね。


は!教育といえば、紀行で『修身説約』が出てきました!
あー!これ本編でやらないフラグだよ!
『修身説約』は楫取が職員の木戸麟に編纂させた道徳の教科書で、全国的にも使われたものです。
全9冊で、内容は国内・海外の寓話や史話などが挿絵入りで載っています。
明治10年10月に編纂が始まり、翌年9月に明治天皇が東北巡幸で群馬に来られた際は、草稿を御覧になっています。
ちなみに木戸麟は高知出身で、孝允とは関係無いです・・・
「きどりん」って語呂がイイよね!「きどりん!」みたいな!(笑)


次回の内容も一層ストレスがヤバそうですよ。頑張って視聴しましょう!



以下、らくがき。






お辞儀の手は前に持ってこなくて良かったか・・・



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