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■副題:「さらば青春」
■年代:1858年8月~1858年12月 文=16歳 松陰=29歳、久坂=19歳
さて、戊午の密勅・安政の大獄・間部要撃策・松下村塾閉鎖と、歴史事件目白押しで一見マトモそうな回でしたが、
おいおい、史実と全然違うじゃねーか!知らなかったら騙されていた!!
いちいちツッコミが追いつかないので、史実通りのあらすじをサクッと書いてみますね。
ドラマと違う所は太字になってます。ドラマのキャストで妄想してみよう!(笑)
ただし、素人調べなので内容の正確性は一切保証しません!(ひでえ)
■年代:1858年8月~1858年12月 文=16歳 松陰=29歳、久坂=19歳
さて、戊午の密勅・安政の大獄・間部要撃策・松下村塾閉鎖と、歴史事件目白押しで一見マトモそうな回でしたが、
おいおい、史実と全然違うじゃねーか!知らなかったら騙されていた!!
いちいちツッコミが追いつかないので、史実通りのあらすじをサクッと書いてみますね。
ドラマと違う所は太字になってます。ドラマのキャストで妄想してみよう!(笑)
ただし、素人調べなので内容の正確性は一切保証しません!(ひでえ)
安政5(1858)年8月8日、孝明天皇は幕府と水戸藩に通商条約締結を非難する密勅を下した。
天皇が幕府をすっとばして大名に勅を下すのは前代未聞の事だった。
9月、井伊直弼は一橋派・攘夷派を封じるべく、「安政の大獄」を開始。老中・間部詮勝を京に送り込む。
9月7日、梅田雲浜が捕縛され、一緒にいた赤根も捕まってしまうが、後に養父の嘆願により釈放される。
そんな中、松陰は紀州藩附家老・水野忠央(ただなか)の暗殺を目論む。
「松浦君・・・1人の奸猾さえ倒せば、天下の事は決まるのですよ・・・」
だが結局、実行はされなかった。
10月、赤根が村塾に帰ってきて、松陰に雲浜救出を相談する。実力行使に出るため再び京に上るが、養父に連れ戻されてしまった。
尾張・水戸・越前・薩摩が連合して井伊を暗殺するという噂が松陰の耳に入ると、松陰は間部暗殺を計画する。
11月には門下生17人の血判状が作られる。(名前が判明しているのはドラマの登場人物では寺島だけである)
11月6日、松陰は周布ら重役に間部暗殺計画を明かし、武器の貸与を願い出る。
「老中を討つので藩の武器をお貸し願いたい!!」
だめだこの人・・・早く何とかしないと・・・・・・
松陰は長井雅楽の暗殺も考え始め、長崎から一時帰国していた来原は塾を訪れ、止めようとする。
「俺が長井と会って、疑わしい奴か確かめてこよう。・・・もしクロだったら・・・お前たちは斬るのか?」
その場にいた前原・入江・稔麿は「固よりそのつもり」と答える。
来原は長井と会談し、使者を松陰に遣わし長井を斬るべきでないと告げるが、松陰は「要領を得ず」として稔麿を長井に会わせ、話を聞かせる。
そんな松陰は藩から危険視され、11月29日、遂に厳囚が命じられる。
周布が藩主に投獄を進言し、文之進の周旋で投獄から厳囚に変えられたのだった。
松陰は厳囚の命を塾にいた前原・寺島・入江・品川・稔麿ら10人の塾生に告げた。
稔麿はその日、「吉田氏家譜」を書く。その中で自分は「王事に勤めて死す」と書いた。
しかし12月5日、藩は百合之助に借牢願いを出させ、松陰の野山獄再投獄が決定する。
塾に詰めていた寺島と稔麿はその知らせを聞くと、他の塾生にも知らせに回る。
入江・前原・品川ら6人の塾生を加え、8人の塾生が塾に集まった。
そんな事とは露知らず周布を訪ねた伊之助は、病気だと言って会ってもらえず、不審に思う。
他の藩士から松陰再投獄の話を聞いた伊之助は、急ぎ杉家にやってきて、兄の剛蔵や塾生達と今後の事を話し合う。
8人の塾生は松陰投獄の罪を問い正すべく、夜中に周布ら重役の家に押しかけ、自宅謹慎に処されてしまう。
稔麿の家譜の裏表紙に一文が書き足された。
「未だ死する能わず」
一方、当時百合之助は病気に罹っており、松陰は看病を理由に投獄が延期される。
12月16日、杉家で餅つきが行われ、その音は近所で謹慎中の稔麿の耳にも聞こえた。
松陰から手紙と共につきたての餅が稔麿に届けられた。
12月24日、桂が杉家へやってきて、松陰を諌める。
(※不確かなため一文削除)
同日、松陰は前原・入江(?)と謹慎中の稔麿を訪ね、協力するよう談判するが、稔麿は算盤を抱き、松陰に冷たい視線を向けるのだった。
「・・・私は俗吏の道を学ぶのみです・・・・・・」
稔麿は、もうこれ以上家族に迷惑は掛けられなかった。
12月26日、松陰投獄の日となり、杉家で親戚・塾生を集めて送別会が行われる。
百合之助は「一時の屈は万世の伸なり」と松陰を慰めた。
伊之助は大酒を飲んで悔しがった。
稔麿は謹慎中のため出席せず、詩を送った。
こうして松陰は再び野山獄に送られて行った。
道中見送る人の中には、稔麿とその母や、品川、入江、前原らの姿もあった。
・・・・・・長いっ!
でも史実通りのシナリオで見たかったよー!そっちの方が絶対面白いよー!
この辺の詳しい経緯は、松陰の「厳囚紀事」「投獄紀事」に載ってるのでネットで読むと面白いです。
ドラマでは久坂が捕縛を逃れケガをした事になってますが、そんな話は聞いた事ありません。
久坂は藩から江戸の蕃書調所で学ぶよう命じられ、江戸に戻ります。
そこで村田蔵六に学ぶのですが・・・蔵六登場はまだー!?
稔麿の母が「十にもならない頃からお勤めして・・・」的な事を言ってましたが、これも知りません。
史料で稔麿のお勤めが確認できるのは、何度も言っている13才での江戸勤務だと思います。
ちなみにドラマではちっとも出てきませんが、稔麿の父・清内は江戸勤務中です。
第2回で松陰が伊之助について「気力・詩力・酒力は私の敵うところではない」的な事を言ってましたが、
このフレーズは入獄の翌日、伊之助に書いた手紙に出てきます。
今回の話は「八重の桜」では第4回「妖霊星」に該当しますが、あちらでは「ほうき星」(ドナティ彗星)が出てきました。
稔麿も8月の松陰宛ての手紙でほうき星を見たと書いていて、時期的に同じ星かと思われます。
八重では不吉な現象と見られていましたが、稔麿は「天より醜虜奸物を掃除する」と喜んだと書いています。
あー・・・そういう対比をドラマで描いたら面白そうなんだけどな~・・・
ところでみなさん!誰か忘れてないですか?
・・・・・・あれ?伊藤どこ行った?
伊藤はこの頃大忙しです!
7月下旬に飛耳長目(情報収集)のため京に上り、10月に帰ったと思ったらすぐ来原さんの従者で長崎へ!
11月に一旦帰国し、上記の通り来原さんと松陰先生が衝突しますが、またすぐ長崎へ。もちろん伊藤も従う。
あぁ・・・この長崎出張を映像で見たかった!長崎海軍伝習所が見たかった!!
今回、来原・周布の役割が伊之助に振られた感じですね。
そんな創作で出番増えても全然嬉しくないよ!
なんで伊之助が松陰投獄させた事になってんだよ!なんで史実の思想と違う事をやらせるんだ!そこに敬意は無いのか!
・・・別に史実と比べて違和感のない創作なら歓迎するんですが、人物の思想を捻じ曲げた創作は不誠実だと思うんですよ。
稔麿もいいようにいじくられてるし・・・。歴史人物は創作の道具じゃないんだよ・・・
そういえば、前回スルーされたと思った伊之助の建白書は今回出てきました。
原文を読みたいんですが探しても見つからず、いつ書かれたのかもちょっと分かりません;
今回色々調べましたが、「吉田年麻呂史料」だけだと稔麿に関する史料は完全じゃありませんね;
「吉田松陰全集」にも知らないネタがわんさか!
うーん、歴史探究の道は長く険しい・・・だがそれが面白い!
ところで、長州ファンにとって衝撃的な展開が降って参りました。
山田顕義と山県有朋が登場しないまま村塾閉鎖・・・!!
ええええ!?塾生の中でも屈指の有名人じゃないすか!!完全スルーかよ!!
後でひょっこり出て来るのか?
なんか松陰の魅力も村塾の魅力も伝わって来ないまま終わっちゃったよ・・・
もっと政治的なところを掘り下げて欲しかった・・・
おむすびとフグ食ってただけじゃねえか・・・・・
次回は文が奔走するらしいですよ。いや・・・マジ・・・勘弁して下さい・・・・・・
以下、らくがき。
※イラストの歴史人物は、宮本のオリジナルイメージを使用しており、役者とは関係ありません。
※一部、歴史人物名や用語は、宮本が使い慣れたものを使用しています。
※文中の暦・年齢表記は原則として旧暦・数え年です。
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